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「躁うつ病だから僕にはできた」世界初の白黒写真修復技術の秘話
家族と写真への愛が成し遂げたもの
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http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55440
「写真の劣化には、化学的劣化と物理的劣化があります。化学的劣化は薬品や酸化性ガスによるもの、物理的劣化は摩擦や紙のやぶれによるもの。化学的劣化から修復する技術については、大手フィルム会社や大学の研究室でも『できない』と言われ続けてきたものでした。その技術を僕が個人の研究で開発することができた。その原因の一つは、僕が躁うつ病だったからではないかと思うんです」
こう語るのは、先日、第52回吉川英治文化賞を受賞した村林孝夫さん。吉川英治文化賞というのは、日本文化の向上につくし、讃えられるべき業績をあげながらも、報われることの少ない人や団体に贈呈される賞。昨年はパラリンピックの義足作成でも注目された臼井二美男さんなどが受賞している。
村林さんは銀塩写真と呼ばれる白黒写真の現物を修復する技術を独学で研究・開発し、2002年に特許を取得している。
現在村林さんの研究所が公開している修復技術過程はYouTubeで公開されており、写真専門ブログでシェアされているところには世界中から「すごい!」「Photoshopでは消えている顔は再現されない。これはやっぱり真似できない!」等々の賞賛の声が寄せられている。
村林さんは、その技術を、躁うつ、つまり双極性感情障害を発症したゆえに開発できたというのである。
マライア・キャリーが実は双極性感情障害だったと告白したことも記憶に新しいが、要はうつ状態と躁状態、そして通常の状態が交互にくる病気だ。村林さんの技術を開発した裏側を聞くと、一つのことを成し遂げるまでのヒントのみならず、双極性感情障害との付き合い方の具体例も見えてくる。
まずは世界中を驚かせている村林さんの「修復技術」に至った経緯から語っていただこう。
「父の遺言」から始まった
僕の父(村林忠さん)は資生堂でカメラマンをしていました。自宅に暗室を作り、僕が小学生になってからはそこで手伝いもさせてもらいました。そこが今でも僕が使っている暗室です。
1965年に(資生堂創業者の息子・初代社長であり写真家の)福原信三さんの回顧展が開かれることになりました。福原さんは父が助手をつとめた恩人で、父がその回顧展を担当。しかしオリジナルプリントが消失し、ネガの多くが汚染されていて使えませんでした。そんな中、僕は東京写真大学に進み、父の助けになればとネガの汚染除去の技術を身につけたんです。それでもオリジナル写真の修復はできずにいました。
1990年、父が亡くなる1週間前のことです。亡くなったのが正月の3日でしたから、クリスマスが終わったくらいでしたね。父は2階に寝ていて、子どもたちを寄せつけていませんでした。そんなときに母が僕に「お父さんが呼んでいるわよ」と言うんです。なんだろうと思い、2階に上がっていきました。
そうしたら、「あの『寂』持ってきてくれる?」と資生堂時代に父が社長から初めて認められた作品のことを言う。もっていくと「どう思う?」と聞くので、正直に「だいぶ劣化しちゃったね、ちょっとひどいね」と言ったんです。そうしたら、
「お前もそう思うなら直してくれよ。お前ならできるはずだから」
これが、父の遺言となりました。
実は戦後のごたごたで、この作品のネガはなくなっていたんです。ネガさえあれば、ネガの修復技術はすでにできていたのでプリントできたんですが、どうにもならないですよね。
複製ではなく生き返らせたい
そこから暗室での研究が始まった。「なぜ写真は劣化するのか」というところから考え始め、昔から愛用している専門書を紐解きながら、夜な夜な研究に明け暮れた。そして「修復はできている」レベルにまで至ったのが1997年。さらに技術を進化させて特許取得をしたのが2002年のことだった。10年あまりの年月をかけて開発したことになる。
父の働いている姿がかっこよくて大好きだったんです。だから、遺言を絶対に守ろうと思いました。それでも最初のうちはどこから手をつけたらいいか分からなかったり、なかなか成果が出なかったりして、「お母さん、ちょっと無理かもわからん」って弱音を吐いたことがありました。そうしたら母には「何言ってるの、お父さんが『お前ならできる』って言ったんじゃない。お父さんが写真のことで間違ったこと、一回も言ったことないでしょう」と言われました。そう言われたらやるしかない。
デジタルでよくいう「修復」とは、オリジナルをスキャニングし、Photoshopなどを利用して加工していく作業だ。つまりは複写をし、コンピューターの中で汚れをとったり、線をクリアにしたりしていく。しかし劣化によって消えてしまった線は復活しないので、「複製物」として、「あったであろう場所」に線が加えられていく。
村林さんのいうオリジナルプリントの「修復」は、万が一のためにオリジナルを複写撮影したのち、そのオリジナルのプリント本体を修復していく。裏にさっとかいた鉛筆書きもそのままで、紙もまったく同じものだ。まさに写真そのものが「生き返る」のである。
デジタルはもちろん素晴らしい技術で、僕もデジタル写真も撮っています。ただ、あくまでも複製物ですよね。その人の思いが込められているオリジナルを修復したいというのが父の希望だったし、僕の願いでもあった。銀塩写真の修復は、デジタル修復とはまったく別者なんです。
消えた画像が浮かび上がる
自宅の1階に、父・忠さんが作ったという暗室がある。45年以上経っているこの暗室が、村林さんの研究室だ。白衣に着替えると、手際よく修復作業を進めていく。硬膜液→漂泊液→清浄液→現像液→停止液の濃度を自ら決めてつけていくが、「こうして簡単にやっているように見えても、けっこう技術がいるんですよ」と村林さんは笑う。
劣化して黄色い所はたいていが硫黄によるものだ。硫黄のように他のものがついて見えにくくなっているものを取り除く作業を最初に行う。漂白剤につけると画像が白くなる。一見消えたように見えるとさすがにどっきりするが、「Ag₂SにHclが反応してSが取れ、Agclに置き換わるんです」。Agclは白いので、白い紙に白で描かれているから見えなくなっているだけなのである。
そして最後に現像液につけると、一度消えた画像が、以前よりくっきりと浮かび上がってくる。
薬剤の順番ややり方は、昔から使っている専門書を読みながら、試行錯誤して生みだしました。父が福原さんからいただいたものを僕も使っているので、かなりの年代物ですよ。大手のフィルムメーカーの研究者や大学の研究室でできなかったのは、修復技術は化学的知識と写真の技術と両方が必要だったからだと思います。
社会人3年での発症
ぼくは大学3年までで単位をとってしまったので、あと1年は資生堂のアシスタントをしたり、製版会社や現像所で働いたり、今でいうインターンのようなことをしていました。そして大手印刷会社に内定をいただいて入社したんですが、会社に入って1年4カ月くらいで胃潰瘍になってしまって。病院にいったらストレスだと。それで思い切って仕事をやめ、別の写真の仕事をしていました。
躁うつを発症したのは、その1年半くらい後、25歳か26歳の時です。最初の時はなんでこんなに疲れるんだろう? と思ったんですね。でも実は父も同じ病気だったので、ああ、うつ病かと。
躁うつは、うつ状態になって、躁状態になって、何もない時期があるんです。父の場合は几帳面に7年ごとに発症していたようです。元気なときは人の3倍働いていたので、うつのときはずっと寝ていました。それでも許されるくらい働いていたんです。
うつのときはダーンとテンションが下がるんですね。そうなるともうどうにもならないから、布団をかぶって寝ているしかない。長い時は1ヵ月半から2ヵ月続くんです。体が重くて起きられない。食事をしても味がしない。感覚がおかしくなる。最初のときは驚きましたが、1回なってみて、この病気は「布団をかぶって寝ていればいい」と思うしかなく、躁のときは「酔っ払っていると思うしかない」と学びました。
幸い父でみんな躁うつのことを知っていたから、病気で責められたことは一度もありません。「うつ病なんて精神が風邪ひいただけだ」なんて言ってくれて救われました。ただ当時は医療が進んでいなくて、今では禁止されている電気ショックもやりましたよ。9ヵ月の間に7回しました。これ、バットで頭を殴られたようなショックがあるんですよ。この影響だと思うんですけど、僕中学生くらいの時の記憶が抜け落ちています。
躁状態でひらめいたこと
ところが躁にかわると、自分がなんでもできると思っちゃうんです。僕が躁状態だったある日、家の2階で見慣れない袋を見つけました。そこには7枚の写真が入っていました。すべて僕が関わった父撮影の写真プリントでした。
初めて僕がプリントした父の写真、初めて父に認められた写真……すべて曰く付きの7枚でした。それを見つけて、「これは父からぼくへのお別れの写真かもしれない」と感じたんです。気分はハイになっていますから、「よし、おやじが言ったことを絶対に叶えてやる、叶えるまで死ねない!」なんて決意したわけです。「200歳まで生きられるかも!」なんて本気で思ったりして。これは躁状態だったから思えたことですよね。
僕はうつでテンションが下がってから躁に移行していって、ハイテンションの60~70%くらいのときに頭がすごく働くんです。「理論で進めば結果が出るはずなのに出ない」と苦しんでいる時期に、ちょうどそのタイミングと重なり、あることがパッとひらめいた。頭が覚醒して、普段なら見逃すことに気づいたんです。
でもそこでひらめいたことを今実践すると失敗すると思い、メモをとって保管して、平常に戻った時に読み返して試してみました。それで今の技術が完成したと言っても、おかしくないんです。躁うつを発症してから4回目くらいの発病だったでしょうか。
深刻に考えすぎてはダメ
躁うつは深刻に考えすぎてはいけませんね。がんじがらめになっちゃう人が多いのではないでしょうか。その点ぼくはもともと抜けているから、あんまり気にしなかったんですよね。人間大らかに、です。今も月に一度通院し、投薬して暮らしていますが、病院の先生にも「村林さんはぼくよりも薬に詳しいから」なんて笑われます。
妻に出会ったときはすでに発症していましたが、「私が支えてあげるから大丈夫」と言われました。好きなものが一緒なんですよ。それはベイスターズ。僕も大洋ホエールズのころからのファンで、おふくろもそう。初デートは横浜球場だったくらいです。娘は上が32、下が26ですが、二人ともベイスターズファンです。
技術を身につけるには、しつこくつづけること、根気よく諦めないことしかないですよね。そうでないと身につくものも身につかないです。評価されないことに不満を持つこともあるかもしれません。実際、僕もこの技術が完成しても「大手フィルムメーカーや大学でできなかったことを一人でできるはずはない」とまったく無視されていましたから。でも諦めずに続けていたから、こうして賞をいただくこともできたんですよね。
実はね、特許を取ってからまた進歩していまして、さらに修復のレベルは上がっているんです。でもそれは特許取らないの。特許を取るというのは技術を教えることにもなるから、それは誰かが研究すればいいやと思っているんです。
続けられる理由、それは写真が好きだからです。これでいいという終わりはないんです。自分でも作品を作って、賞もいただいて、でも終わりはないです。欲求不満のまま死んでいくんだと思いますよ。
大好きな父と一緒に好きなことを続けてきた歴史、お互いの能力を認め合い、病気のまま受け入れ、愛し合ってきた家族の存在、写真を愛し、持っている人たちの想いを叶えたいという気持ち、そして、自らの技術を高め続けたいという強い思い。小さな町の研究室から誕生した村林さんの偉業は、人として地に足のついた生き方の上に立っていた。