鶏卵紙写真の修復/再生への道のり

こ れまでにナイアガラの滝は1911年に一度だけ凍結したことがあると言われている。その時に撮影された鶏卵紙写真と思われる。
酸性紙に凹凸に貼られた、クリーニング前の状態。酸による劣化が心配される。

鶏卵紙とは

私が「鶏卵紙」を知ったのは、大学で 写真の歴史の講義を受けた時である。1839年ダゲールによって公表された、最初の実用的な写真術である「ダゲレオタイプ」に始まる写真の歴史の中で、19世紀半ばから20世紀初頭までの約50年間、最もポピュラーだった写真印画法であり、数多くの写真が現在まで残されている。
鶏卵紙は、上質紙などの表面に「卵白に塩を加えた液」を均一に塗り、これを乾燥した後に「硝酸銀溶液」を塗布して、感光性を持たせたものである。感光度は極めて低く、太陽光での密着焼き付けを行うので、引伸しはできない。定着は「チオ硫酸ナトリウム」で行うが、そのままでは耐久力が無いため、通常では「金調色」を施す。後に改良され、「卵白」の替わりに「ゼラチン」を使った「P.O.P印画紙」が開発されるが、直ぐに、現代に続く「ゼラチン・シル バー・プリント」が発明された。

鶏卵紙との出会い

初めて「鶏卵紙写真」を見たのは、大学3年の秋だった。当時の写真化学の第一人者であった「宮本教授」が所蔵していた一枚である。その写真は1880年代に制作された「外国の建築写真」で、とても美しいセピア色の写真だった。ゼラチン・シルバー・プリントの写真しか見たことの無い私には、鳥肌が立つほど衝撃的な出会いであった。
その後、鶏卵紙写真とは何故か縁遠くなり、その存在すら忘れかけてしまっていた。

再会

ゼラチン・シルバー法の白黒写真の修復法を確立した後、次の目的を捜していた時に「鶏卵紙写真の劣化が大変なことになっている」との話を、写真関係の方から聞かされた。その時、大学時代の恩師の言葉を思い出した。「鶏卵紙写真は、金調色を完璧にすれば百五十年程の耐久力がある。しかし、雑な処理をすると数十年で劣化が始まってしまう。残念な事だが、そういう写真が多いのも確かだ。」忘れかけていた、あの「美しいセピア色の写真」が脳裏に浮かび上がって来た。私の次なる挑戦が、この時に決まった。
早速、写真の常設展示室のある「横浜美術館」を訪れた。幸いなことに、鶏卵紙写真が展示されてはいたが、どの写真も「美しいセピア色」ではなく、「淡い黄褐色」に変褪色してしまったものだった。「鶏卵紙が大変なことになっている。」との言葉は、本当のことだった。

挑戦への第一歩

「化学的に生成された写真は、その劣化の最大の原因は化学的なものである。これを修復/再生するには、化学的手段を用いる他に方法は無い。」これは、ゼラチン・シルバー法の写真で実証済みである。しかし、鶏卵紙写真の写真化学的なことは、大学のカリキュラムにも無かったので、知識は皆無に等しかった。
その日以来、暇を見付けては図書館に通い、古典的写真技法の本を探したが、近くの図書館では見つけられなかった。ある日、大学の図書館へ行ってみた。書棚には写真工学や写真化学の本が並んでいた。その片隅に「古典写真技法」の小さな本を見付け、ページをめくると「鶏卵紙」の構造と必要な薬品類、製造方法と焼付け方法が簡単に書いてあった。思っていたより単純な構造なので、自作できると直感した。

鶏卵紙の製作・1

近所の薬局に行き「硝酸銀」と「蒸留水」を注文した。写真用硝酸銀の純度は「ナイン・ナイン」つまり、99.9999999%以上の純粋なものである。溶液に使う水は当然「蒸留水」である。
薬局からの帰りに「卵と塩」を買って、早速「卵白液」の製造に取りかかることにした。大学時代の「写真工学実験」の時に感じた、心のたかぶりを覚えた。ビーカーに卵白だけを取り出すのは、簡単そうでなかなか難しいことだった。黄身を壊さない様に、カラザも丁寧に取り除いて、卵白だけを必要な量だけ用意した。次に、塩を精製水で溶き、お酢と共に卵白の入っているビーカーに静かに注ぎ込んだ。 撹拌棒でゆっくりと泡立てないよう、1時間撹拌を続けた。

鶏卵紙の制作・2

ビーカーの中の卵白(7個分)を1時間も静かに撹拌する作業は、かなりの忍耐力が必要だ。
古典写真技法の研究者の中には、ミキサーで一気に掻き混ぜれば、時間と労力の節約になると言う人もいる。
しかし、卵白のタンパク質はゼラチンと比較すると非常に脆いので、バインダーとして不完全なものになってしまう。
ゼラチンは立体的な網目状の堅固な構造だが、卵白はL字型の鎖状で結合状態が弱いので、耐久性が劣っているのだ。
卵白液がサラサラの水の様な感じになったら、ガーゼを二重にして濾過をする。
自然に落ちるまで待って(10分程度)その容器をラップして、冷蔵庫で1週間ほど寝かせておく。

鶏卵紙の制作・3

鶏卵紙に焼き付けるネガは硬調な湿板写真だから、軟調な鶏卵紙に焼き付けると、ちょうど良い調子が再現出来る。
現在のネガフイルムは、湿板写真と比べるとそうとう軟調だから、かなり硬調のネガを用意する必要がある。
そうしないと、ネムイ感じのボヤケタ鶏卵紙写真になってしまう。
硬いネガを作るには、使うフイルムの感度の2〜4倍の実効感度に設定し、強力な増感現像液を使用し、現像時間を延長するとか、基準の温度より高い温度で現像すれば、硬い調子のネガが得られる。
この時に気をつけるのは、現像がオーバー過ぎると、最大濃度は上がって黒くなるが、濃度レンジが低くなり過ぎて軟調なネガになってしまうことがある。