「日本写真芸術学会」平成16年度年次大会 村林孝夫研究発表講演
テーマ 「白黒ヴィンテージ写真の科学修復と展示」
日時 2004年7月3日(土)
場所 東京工芸大学 芸術情報館
1.はじめに
19世紀後半より開発されたゼラチン・シルバー法で製造されてきたガラス乾板・ネガフィルム・ 印画紙などの画像は時間の経過と共に劣化し、変色・褪色及び銀汚染の出現などが見られ、撮影者の作画意図は劣化と共に薄れ、やがて消え去って行くのが写真の運命であった。 写真の劣化の原因は経年変化のみならず、制作時における現像処理の優劣や制作後の保存方法にも大きく左右される。 このような劣化が起きてしまった写真をより良好な画像に再生すべく、その救済方法について研究し続けた成果を報告し、その可能性についての考察を発表する。
2 : ネガの銀汚染のクリーニング
1965 年の日本写真会理事会で、初代会長・福原信三氏とその弟・路草氏の回顧展開催について決議された。 しかし、両氏のオリジナルプリントは関東大震災で消失し、また戦後の混乱期に散逸し本部事務局にも残されていなかった。
幸いオリジナルネガは両氏合わせて百数十点が残されていた。
戦前に信三氏の助手を務め作品制作を行っていた私の父・村林 忠(同会副会長)が、そのネガからニュープリントを制作することになった。ネガを調査したところ全てのネガに銀汚染が見られ、テストプリントしたが満足な諧調が得られず、回顧展の企画は暗礁に乗り上げた。
この日を境にひとり銀汚染クリーニングの研究が始まった。 写真作家・商業写真家である父にとっては大きな課題であった。父の研究に興味を持った私は、東京写真大学(現・東京工芸大学) 工学部写真工学科に進学し、宮本五郎教授のご指導を受けつつ父と共に研究を進めることにした。
そして1969年夏に、ある偶然から銀汚染の除去方法のヒントを得て程なく成功した。 早速日本写真会理事会に報告し、回顧展の企画が復活した。
その後、旭ペンタックス・ギャラリー館長より、全面的に協力したいとの申し出があり同館で開催することが決まった。
この展覧会は福原兄弟と、関西で活躍した安井仲治氏を加えた三人の回顧展として 1971 年に開催された。
戦後のリアリズム派やモダニズム派の台頭で「光と其の諧調も色あせた」と言われて久しいが、オリジナルに限りなく近いプリントの展示は好評を博し、
その後の福原両氏の再評価のきっかけとなった。
(このときのプリントは、日本写真会より日本大学芸術学部へ寄贈された。)
そして6年後の1977 年に、新たに探し出されていたネガの銀汚染等をクリーニングし、銀座ニコンサロンで両氏の展覧会が開催され、多数の観客を集め、両氏の評価は確固たるものになった。
更に、日本で初めての常設写真展示室を持つ横浜美術館・美術資料収集委員会より、写真作品収蔵に不可欠な日本人作家として両氏の名が挙がり、日本写真会に協力依頼があった。
直ちに理事会が開かれ「最高の作品を寄贈させて戴きたい」との会長の言葉に満場一致で協力を決定した。
これまで必要な分のみのネガの銀汚染のクリーニングであったが、この時に残されていた全てのネガの塵・埃・銀汚染等を完全にクリーニングし、厳選された信三氏42点・路草氏22点の作品を制作し、1982年に同館へ寄贈された。
また、1985 年開催された「つくば写真美術館’85」では、福原両氏の作品の他に、小石 清氏の銀汚染が顕著に現れ、何処の現像所でもプリントできなかったネガを完全にクリーニングし、そのネガからニュープリントを制作し出品された。
この銀汚染によりプリント不能のネガを救済する方法は、忠の意向により当時は発表されなかった。昨年秋、吉備国際大学・社会学部・文化財修復国際協力学科で私が講演を行い発表した。
3 : プリントの修復
1980 年代後半、ネガの救済ができるのならプリントの救済法も開発できるのではないかと2人は考えるようになった。しかし、父は病を得て入退院を繰り返していた。
1989 年暮れ、父は私を枕元に呼び「戦前の作品で自分の一番気に入っている写真が有る。でもネガもなくプリントは銀汚染に覆われ変褪色も醜い。 とても人様に観てもらえる代物ではなくなってしまった。 孝夫、お前なら何とか修復できると信じている。成功させて多くの人に見て欲しい。」と言った。 そして年が明けると直ぐに静かに旅立ってしまった。
父の遺言を胸に研究を始めたが思うようには進まない。 劣化の化学的なメカニズムやハロゲン化銀・ゼラチンについて、学生時代の教科書でもう一度基礎から勉強し直した。 商業写真家としての仕事の合間の研究でも、歩みは遅いが着実に進んで行った。
転機は突然訪れた。
1998 年暮れに渋谷区立松涛美術館で開催された「寫眞芸術の時代」を観て、70年以上前のオリジナル・ヴィンテージでもほとんど劣化の無い奇麗な作品を残している作家もいれば、変褪色・銀汚染やムラが出て非常に見づらい作品の作家もいた。
写真家として活躍していた当時は同格の力量であると評価されていたが、この写真展の作品からはそのような印象は受けられなかった。
修復ができるなら、同等の画質の作品に対し、良好な状態で評価されるべきだと強く感じた。
同時に、このように劣化した作品を展示されることに対して、作家の想いは父と同様不本意なことではないかと思った。
このことが研究に対する私の想いをいっそう強いものにし、これまで解ったことや考え続けたことを再構築し、実験を繰り返した。
そして、試行錯誤の末満足のゆく修復法を完成させた。
2000 年パリ写真月間で修復法を発表し、展覧会をパリ5区「スタジオ イマージュ」で開催した。 パリ在住のサビーヌ・ヴァイス女史3点・福原信三氏3点・村林忠20点のヴィンテージプリントを修復し展示した。
写真関係者や一般の観客にも好評であった。 サビーヌ女史は作品の前で「死んでしまった子供に、また会えたようでとても嬉しい。」と微笑んでいた。
もちろん修復に対して肯定的な意見ばかりでなく反対意見もあったことを付け加えておく。
そして、本年2〜3月にかねてより企画が進んでいた「村林 忠写真展」が渋谷区立松涛美術館で開催された。 今失われつつある銀塩写真の魅力を村林 忠の作品が改めて鮮やかに示し、大きく変貌し続ける写真の現在を考えるための貴重な参照点にしたいとの意向であった。
50点の作品の内、劣化が進んだ17点を修復し展示した。
また、福原信三氏の作品「パリとセーヌ」のヴィンテージプリント3点も特別陳列された。
この3点の作品は前出のパリ展に向けて修復したもので、同展でも90年前のプリントとは思えない素晴らしい作品であると、非常に好評であったため本邦初公開に至ったものである。
4 : おわりに
ここまでネガとプリントの救済方法の研究の歩みとその成果について述べてきたが、一般的な修復論ではくくれない写真独自の修復に対する考え方について、ひとつの提言をしたいと思う。
写真の特徴のひとつに「同じネガから複数枚の作品を作り出せること」がある。 このネガは作品を制作する上で、主要な材料ではあるが作品ではない。
汚染や劣化が進んで満足なプリントができないネガをクリーニングや再生処理をして、作品としてのニュープリントを得ることは、写真だからこそ許される修復のひとつのかたちではないだろうか。
それに写真は高い科学技術の産物である。
画像形成には化学反応によることが大であり、劣化の主たる原因もここにある。
その画像を化学的に再生できるのなら、再生あるいは修復するべきではないのか。
また、デジタルの時代を迎え、銀塩写真ではなく電気信号化された画像を作品として残してゆくことに、写真作家や愛好家が本当に満足しているだろうか。
私は銀塩写真の現物を、より良好な状態で残すべきだと考えている。
写真を修復することで最も危惧されているのは修復画像の劣化と言われているが、ネガでは34年間の実績があり、当社で行った強制劣化試験では、ネガ及びプリントでも100年以上の耐久力を持つとの成果を得られ、十分実用に耐えることが示された。
先人達の作品に込められた想いをいかに後世に伝えて行くのか、これを機会に再考されることを願ってやまない。